世界を変えることと社会を変えること、あるいは「はてな的性善説」について

はてなの中の人たちは、はてながどういう社会を形成しているのかについての議論をもっとしていかないといつまでたっても「胡散臭い」まま。コードを書き直す前に、世界を作り直すことを考えるべきではと思います。

はてな村で一番かっこいいスーツことid:gothedistanceさんがなかなか面白いことをおっしゃられていたので反応してみる。
僕はテクノロジーというのは嫌いじゃなくて(というかむしろ好きで)、だからこそテクノロジーの限界を見極めるべきだと思っているし、テクノロジー礼賛の傾向にはどちらかというと吐き気を覚える性質です。よくUI周りの人が言っていることですが、「技術っていうのは、人が使うもの」なので、技術を使って作られたものは「人間が使うということ」を徹底的に意識しないといけないわけです。そしてそれは(少なくとも今のところ)技術の領域ではない。特に、はてなのような「コミュニティ」を形成するサービスは、そこに「社会」が構築されるわけで(GoTheDistanceさんは「世界を作り直す」とおっしゃられているが、正確には「社会を作り直す」だと思います。世界はコードを書き直せばいいので。以上余談)、そうなるとテクニカル・アーキテクトとしての視座と同時に、ソーシャル・アーキテクトとしての視座が必要になる。この辺りは神成淳司×宮台真司がここ最近主張していることとも重なります。そういう意味で言うと、はてなというサービス群は、ソーシャル・アーキテクチャの領域においてあまりにもおざなりである、という主張は、なかなか重要な点を突いているように思います。
性善説を信じるならば、それはまさに「神の見えざる手」によって「うまくいくはず」です。アダム・スミスもそう言っています。経済学とはそもそも、道徳哲学です(残念ながら馬鹿が「市場に任せれば全部うまくいくんだぜー」というクソ解釈をしたために捻じ曲げられましたが)。でももちろん、性善説は「括弧付き」。幻想です。フリードマンは置いておくとしても、あえて「(人がそうであるならば)うまくいく」という幻想を置くことに意味があるとスミスは説きます。ではテクノロジーの世界ではどうか。オンラインコミュニティは、あえて「(人がそうであるならば)うまくいく」という幻想を置き続けるのか。たぶんid:jkondoシャチョーはそう考えているのでしょう。でも、そうであるのならば尚更に、ソーシャル・アーキテクトとしての視座が必要になってくるでしょう。世界を変えられるのはエンジニアだけかもしれませんが、そこに出来上がった社会をどうするかは、ひょっとするとエンジニアリング以外の能力が必要なのかも知れません。
以上、僕なりのはてなへのエールでした。