編集による価値の重み付けと、集合知による価値の重み付け――二項対立を越えて

「新聞を読んで世の中を幅広く知っていると社会に出て強烈に役立つ。インターネットと比べ、新聞は見出しや記事の大きさからニュースの価値判断が分かる」

しかし「重み付けを行う人は、時に恣意的な判断をするかもしれない」という前提に置き換えた瞬間、このロジックが導き出す結論は「新聞は強烈に役立たない、むしろ危険だ」ということになります。

この議論は昔から興味があって、また大学の後輩たちが取り扱っていた題材でもあります。ここには「編集という行為の価値」の話と「ユーザーインターフェイスとしての新聞の価値」の話と「マスメディア論」の話と「ネットメディア論」の話が混在していて、だからYOMIURI ONLINEブコメに批判がついたりするのですね。
まず「編集という行為の価値」について。新聞もそうだし、実はネットメディアもそうなのですが、情報を編集するものが存在するというのは、それだけですでに「価値の重み付け」を行っています。そもそも取り上げるかどうかという時点で重み付けは行われている。さらに、ある情報の中でどの部分に着目し、どう解釈し、何が重要であるかを伝えるために編集すれば、そこには「価値の重み付け」が刻印された情報が残ります。これが必要ないならば、人はありのままの情報(例えば数値データや動画データ)のみを受け取っていればいいことになります(もちろん、人がありのままの情報を受け取ることなどできませんし、数値データにも動画データにも編集の刻印はすでになされています)。
続いて、「ユーザーインターフェイスとしての新聞の価値」について。新聞というメディアはユーザーインターフェイスにおいて非常に優れています。これはかなり疑いようのない事実で、一面に大きく載っていれば重要なニュースであると推測できるというのは、メディア形態として非常に優れていると言えます。ネットメディアはまだここには至っていませんが、たとえばYahoo!であればトップページのトピックスに載る/載らないという区分が新聞の一面か否かに相当するなど、工夫は存在します。そのほかにも、ネットメディアならTOPに載せる/載せないとか、一番目立つ場所に置く/置かないとかいった手法が存在します。
次に「マスメディア論」について。新聞は多聞に政治的背景とスポンサー的背景を持つため、恣意的な情報操作が行われているという可能性を持って向き合うべきです。ただし、編集された情報はそもそも恣意的であり、そういう意味では「朝日新聞は信用ならないけど○○なら信用できる」といった類の話は実は無価値です。基本的に、どの「恣意的なもの」を選ぶかという議論でしかあり得ません。
最後に「ネットメディア論」です。前述の通り、ネットメディアでも新聞の一面的な価値の重み付けの工夫は存在しますが、RSSの存在によって相対化されます。さらに、Google的な価値の重み付け、あるいはソーシャルブックマーク的な価値の重み付け、すなわち「集合知」による価値の重み付けが加わり、なおかつそれが「比較的、正しい」とされてしまっていることに問題があります。マスメディアの価値の重み付けが恣意的であるのと同じレベルで、集合知による価値の重み付けも恣意的です。
結論。新聞というメディアのユーザーインターフェイスには、まだまだ見習うべき点があります。一方で、ネットメディアにおける集合知的な価値の重み付けは、所詮は衆愚でしかない可能性を否定することが原理的に不可能です。であるならば、紙というメディアではできないことを実現するネットというメディアにおいて、単なる編集による価値の重み付けとも、単なる集合知による価値の重み付けとも違う――あるいは、その融合型とでもいうべき、新しい「価値の重み付けの提供」が求められているのではないか。
ぶっちゃけます。「新聞はネットよりも役に立つんだい!><」という議論も、「新聞とか信用ならね。ネットの集合知のほうが役に立つんだい!><」という議論も、両方うんざりです。
……とまあ、そんなことを考えたり、そうした思想を今やっている仕事の根幹に強引に注入したりしている昨今です。酒が入っている上に推敲ナシの一発書きなのでたぶん突っ込みどころ満載。