ブログ全盛期においてマスメディアが持つ情報取捨選択機能の効用、あるいはインフラの「正統性」の判断の困難さについて

問題はいくつかのフェーズに分けられます。
メディアの独立性の話。大前提であり、非常に素朴な議論であり、同時に広告というビジネスモデルを選択したマスメディアにとって永遠に避けて通ることのできない命題です。
近年はこの辺りのメカニズムがどうなっているのか、世に知れ渡ってきたのですが、実際に現場でどういうやり取りが行われるかはご存じないですよね。僕も新聞社や世のWebメディアがどのように処理しているのかは知りませんが、僕の現場でこういう問題に直面したことは事実としてあります。そのときどうしたか?
僕はもともと広告営業でしたから、営業時代にこういう話をいただいたことはあります。そういうとき、営業は記事の削除に絶対に応じません。編集が、ではなく、「営業が」です。割と徹底しています。そういう社内風土に「へー」と思った記憶があります。
それやったらあかんよね、ということです。それは別にジャーナリズムがどうこうなどという大上段に構えた話ではなく、それやったら読者にも企業にも信頼されなくなるよね、というだけの話。メディアって、信頼のビジネスなんですよ。信頼を売っているんです。
まあその辺は各現場によっていろいろと違うわけで、それはそれとしてまあいいんですが、上記ブログではそこから「ある情報を『発信しないこと』」がネット全盛期においては無意味(どころか逆効果)であるという議論につなげています。
ある面で正しいです。ですが、それをもって旧来のマスメディア型装置による情報の取捨選択機能が一切の効用を失ったかというと、若干疑わしい。情報の取捨選択のすべてを受け取り側に委ねるのは大きな負担を掛けることになるからです。民主主義と同じです。全国民による民主主義は理念上は完璧ですが実効性に乏しい。コストがかかり過ぎます。よって代表制となったわけです。ところが、こと「情報」に関しては完全な民主性が(少なくとも理論上は)実現してしまいました。
「メディア」の機能が「情報の発信者による取捨選択」から「数多ある情報の取捨選択のツール」へと移行しているのは、こうした流れに沿ったものです。ですが、「情報の発信者」の「取捨選択」が恣意的である(そもそも取捨選択なんだから恣意的なのは当たり前なのですが)のと同じレベルで、「取捨選択ツール」の「取捨選択の仕様」は恣意的です。前者はみんな気付きましたが、後者は気付かれにくい。インフラだからです。新聞社などの分かりやすい「体制」の腐敗は見抜きやすいですが、検索エンジンソーシャルブックマークなどの「ツール」「インフラ」の腐敗は見抜きづらいのです。技術的な視座(アルゴリズム)と、それが「正統か」という判断を行う社会的な視座(アルゴリズムの適正さ)の両方の見地から判断しなければならないためです。前者は科学的な視点であり、後者は人文的な視点です。前者はアルゴリズムが「正当であれば」「正統でなくとも」OKであると判断してしまいます。一方、後者はそもそもインフラの正当性を判断することができないため、正統性を議論することができません。
上記ブログの書き手さんはメディアの「正当性」が損なわれていることを指摘します。でも、素朴な「正当性」の問題だけではなく(近年のメディア腐敗はこの「正当性」の不在を糾弾することが多い)、「正統性」の問題にこそあるのではないか――。
ここまで書いてごちゃごちゃになってきたので一旦締めます。推敲なし。