ヱヴァ破の話をもう少しだけ(ネタばれ)

ネタばれです。注意。

















「ネタからベタへ」が14年を経たヱヴァの方向性です。
自意識の海に落ちていく登場人物たちの不完全なコミュニケーション(の果てにある人類補完計画)を延々見せつけられるだけだった(=すなわち、深淵をのぞくわたしたちが深淵にのぞかれている状態を延々繰り返させられた)テレビ版。当時は、それが求められていたのでしょう。
時代は移ろい、キャラクターはデータベースとなり、すべての展開は「どこかで見たことのあるもの」になりました。完全に「底が割れた」ので、「ああこのパターンね」としか感じられなくなったのです。
こうした世界で、意表を突くのは非常に困難です。ネタ(アイロニー)を何回転もさせて、それでもみんなどこかに既視感を覚える。「ベタにあえて」が増殖します。
ヱヴァがやったことは、ある意味でその対極です。すなわち、14年という時を経て、ようやくヱヴァは「ベタ」に振る舞うことが許されたのです。だって、仲良くなって、人と接することを覚えたアスカがその途端に三号機に乗ってしまって、なんて展開、当時テレビ版でやったらベタすぎて面白くありません。シンジがレイに「代わりなんていない!」と叫ぶのも、当時テレビ版でやったら「おいおい」という内容です。でも、今回みんなその2箇所で魂が震えたわけです。なぜか。14年の蓄積があるからに他なりません。
14年の蓄積が、アイロニカルだったエヴァが「ベタにヱヴァをやる」ことを許したのです。見ている側が大人になったということもあります。もうみんな、自意識に悩まされる歳じゃないのです。
アイロニーが陳腐化したからこそ、シンジの「意志」と「選択」に心が打ち震えるのです。そう、今度こそ大丈夫。あの時、僕らはみんな自意識に振り回されて、いつまでも選べずに先送りをし続けたけど、そろそろ選ぼうじゃないか――そういうことなのです。
幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだね。物語を「破壊」するマリは冒頭でそう歌います。したいことがあるなら自らつかめ、とゲンドウはシンジにいいます。ああ、なんて陳腐なメッセージ。でもそれをヱヴァがやるんだから、この世界はまだまだ捨てたもんじゃない、と思えるのです。
「代わりなんていない!」と叫ぶシンジのシーンは、本当に素晴らしい。白状すると、僕は本気で泣きました。劇場で。キモすぎる。
すべては代替可能です。3人目以降が控えているレイは、取り換え可能な僕らの暗喩です。あなたじゃなくてもいいのです。
だからこそ、やっと「2人目のレイ」を救うことができたあのシーンを、素晴らしいと思うのです。14年かかったんだぜ。そりゃ泣くよ。
「Q」がどんな話になるのかはまったく想像がつきませんが、これだけはいえます。ヱヴァは希望の物語です。どんな結末が訪れるにせよ、これだけはもう覆せないでしょう。
世界も自分もどうなったって構わない。あなたに代わりなどいない。僕は「あなた」を救いたい。
セカイ系」の構造を採用しながら、まったく陳腐にならないだけの14年の重みがそこにはあります。

気になること

旧劇場版はレイ(=母)を拒絶してアスカ(=他者)と生きることを選択したシンジ=現実と向き合え的メッセージで終わったわけですが、そのあたりはどうするつもりなのか。次回予告を見る限り、レイと一緒に初号機の中に引きこもっちゃうっぽいですが。この手の「現実に帰れ」的説教はエヴァ以降氾濫したのでもはや「ベタ」ですが、かといって「現実に帰らなくてもいいよ」をやるというのも……(村上春樹ですら現実に帰って来るのに。海辺のカフカ!)。「圧倒的他者」であるところのマリがキーになるのかなあ。本当にマリは「異物」だよなあ。ザ・ビースト!