死刑をめぐるロードムービー/森達也「死刑」に寄せて

僕は、そんなはっきりとした意見などないんです。元々、人の考えなんて――自分の考えなんて、はっきりしたもんじゃないと思うんです。被害者に関われば被害者の気持ちに賛同し、加害者に関わればまた情のようなものが湧く。それが人情ですし、人間だと。一つの物事には多用な側面がある。僕はその一つを選び、自分の意見だなどとあなたのようには決められないんです。きっと、そういう人間の方が世の中には多い。ただ、人が死ぬのは嫌だなあと思うだけです。それはそんなにいけないことでしょうか?
小手川ゆあ「死刑囚042」より)

森達也という人物の作品を、僕はそれほど熱心に全て追っているわけではない。ただ、「A」には感銘を受けたし、「下山事件」でその人柄のようなものを見出すことはできた。「いのちの食べかた」を読んだときは思わず泣いてしまった。まあその程度だ。その程度だけれど、どこまでも人間の醜さを愛し、そこから何かを見出そうとする姿勢を感じ取ることはできる。森達也はどこまでも人間を愛し、信じている。
死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う
本書「死刑」においても、こうした森のスタンスは踏襲されている。死刑について、森(及び、僕を含む世の中の大部分の人間)は、非当事者だ。遺族でも、死刑囚でも、刑務官でも、教誨師でも、裁判官でも、検事でも、弁護士でもない。だから彼らの気持ちなど分からない。理解をすることなど不可能だ。だからこそ、彼らを「直視」し続けた3年間の記録として、本書は大きな価値を持っている。
死刑制度の是非に関する論理の面において、本書は特に新しい提言をしているわけではない。誰もがよく知る冤罪可能性や抑止効果の無さなど、使い古された(が故に重要で強固な)論理であり、それらを踏襲した上で森は「それは本質ではない」と言う。これまでこうした論理が蓄積されて、結局、結論が出ていないからだ。その奥に、情緒が存在する。情緒を論理で覆っている。過剰に論理的な理由は非論理的なものである。そこで本書の後半で森は死刑というモノに対し、論理から情緒を引き剥がす作業に入る。
その結果として森はひとつの結論を見出すが、僕自身が感じたことはもっと根源的な疑問である。すなわち、人が人を裁くということの不合理さだ。人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいと思う。本書の副題であり、森の結論を暗示するメッセージだが、ここに本質が隠されている。酷いことをした悪人は裁かなければならない。被害者のことを考えると、やっぱり死をもって償ってもらうしかない。でも、人は人を救いたいと思ってしまう。そういう風にできている。その矛盾。たぶん神が見ていたらこう言うのだ。「人風情が人を裁き、償いを語るなど、笑止千万」と。だが神は死んだ。人は人を裁かなければならないし、償いの意味を見出さなくてはならない。
その矛盾をある男は原罪と呼んだ。悪人を殺したいと思うくせに、でも人を殺したくない、救いたいと思う、人とはそういう罪深き生き物なのだ。だから彼は隣人を愛せと説いた。汝に礫を投げる者を愛せ、と。そういう人の本質を、死刑という制度は形にしている。
ちなみに、僕個人としては死刑制度に条件付き反対の立場を昔から取っている。その理由は特に詳述しない。論理に意味はないからだ。故に僕もまた罪を負っている。でも構わない。罪を負うから人間なのだ。死刑制度は民主制に則って存続し続けているのだから、死刑囚を殺しているのはすべての日本国民だ。だから意思を表明しなければいけない。どちらを選んだところで人は罪人に変わりはないけれど、目を逸らしたらそれすらも無くなってしまう。秘密主義のために直視することが難しい死刑制度の本質への肉薄を、森の視点を通して覗きこむきっかけを与えてくれるという意味で、本書は重要だ。
――――なお、森の情緒には隙がある。人は、人を救いたいと思う。じゃあ「人」って何? 森は、死んで当然な人間などいない、と、何人もの確定死刑囚との対話を通して結論付けている。だが人というカテゴライズは恣意的だ。彼の情緒は、果たして「本当に人とも思えない罪人」が(もしも)現れてしまった時、それを殺すことを厭わない可能性を残す(だからこそ、森は人を信じているのだが)。それだけではない。今後、人の範疇は広くなったり狭くなったりする可能性を否定できない。例えば人格障害を人とするかの議論は存在するし、一方で機械やロボットが人格を持つ時代が到来した場合、あるいはクローンが存在するようになった場合、彼らは人なのか人じゃないのか、議論はやはり発生する。そもそもカテゴライズは恣意的なのだ。だから、森は人を信じているけれど、「人」というカテゴライズの恣意性を自覚し続ける必要がある。
情緒は重要だけれど、危険だ。