『死刑のある国ニッポン』

死刑のある国ニッポン

死刑のある国ニッポン

『殺された側の論理』を書いたジャーナリスト「死刑存置派」藤井誠二と、『死刑』を書いたドキュメンタリー作家「死刑廃止派」森達也の対談本『死刑のある国ニッポン』を読了。
……まず、これほど「濃い」対談本は久しぶりに読んだ。2人は対立する。前提の理解も、諸問題に対する見解も非常に近しく、お互いリスペクトし合う2人なのに、こと「死刑」については真っ向から対立する。相容れない。森は「死刑とはそういう制度なのだ」と語る。
次に、2人の態度の「意外さ」を感じた。藤井は著作で迷いを見せなかった。森は著作で迷い続ける様をさらけ出した。ところが、本対談では真逆だ。悩みと戸惑いをさらけ出す藤井と、「もう揺るがない」と語る森。最後までお互いに意見は曲げない。ただ、藤井は明らかに迷っている。戸惑っている。それでも曲げない。そんな藤井に森はズバズバと言葉を投げかける。これは本当に意外だった。
最後に、内容について。これはもう……読んでくれとしか言いようがない。僕は廃止派だけど、読みながら――特に藤井の言葉を読みながら――頭の中がぐちゃぐちゃになって、何度も吐きそうになった。そして、それでも揺るがなかった。藤井が揺るがなかったように。……ならば、やっぱりこれは「感情」の問題なのだろう。
1つだけ言えるとすれば、森は「人権派(笑)」的な凡庸な廃止派ではないし、藤井は感情だけを優先するような凡庸な存置派ではない。だからこの対談には意味がある。

遺族の気持ちは「わかる」か

森は言う。

何度でも言います。遺族が犯人を憎むことは当然です。間違いなく僕だって恨みます。殺したいと思うでしょう。でも今、僕たちは第三者です。哀しみや苦しみを想像することはできても、共有することはできない。

遺族の気持ちは「わかる」か。わからない。わかるわけがない。想像することはできる。でも共有することはできない。すべきではない。……ここにある。森と藤井の「分かれ道」は、死刑を是とするか非とするかの「分岐点」はここにあるのではないか、と思う。
「わからない」からこそ、「命を最優先」し、「誰かが死ぬことを願う人生は、その人にとってもつらい」と断言する森。
「わからない」からこそ、安易にわかったふりをしたくない、そこから「死刑廃止」までの道のりを「飛躍だ」と語る藤井。

応報感情は死刑の根拠たり得るか

子どものころ、よく漫画やドラマで、大切な人を殺された人が復讐するような場面で、「復讐して何になるんだ」とか「あいつがそんなことを望んでいるのか」とか言って犯人を説得するシーンを見るたびに、「でも捕まって死刑になったらその理屈は破たんするよなあ」とか、逆に「いやもし殺された人が望んでたらOKなのか?」とかいろいろ考えた。
応報感情は否定しない。でも死刑の存在理由が応報感情しかないのなら、やっぱりおかしい。わからない。森も何度も言っているが、被害者遺族がいない場合、死刑にする意味がなくなってしまう。するとどうなるか。罪刑法定主義が崩れる。この国は近代司法国家の看板を下ろさなければならなくなる。それに、処刑は公開しなければおかしい。「人道的な殺し方」ではなく、嬲り殺しにしなければいけないはずだ。……存置派で、それを主張する人はいるだろうか。あんまり見たことがない。悩んでいる。罪悪感がある。それは多分、人間だからだ。

死刑囚は「仲間」か

一方で、森の「人は人を殺す本能を持っていない」云々はかなり危うい。そんなことはない。正確に言えば、人は仲間を殺さず、仲間のために敵を殺す生き物だ。つまり、死刑囚を「仲間」と思えるか否かがポイントなのだ。被害者遺族は当然「仲間」とは思えないだろう。だが、それ以外の人は死刑囚を「仲間」と思える可能性がある。余地がある。だから悩む。迷う。惑う。……これは罪だ。つくづく、イエスの説いた「原罪」は根源的な概念だと思う。人は生きながらにして罪を負っている。
……だからこそ「止めるべきだ」と思うのか、「それは飛躍だ」と考えるのか。その分岐を決めるのは何なのか。経験か。思想か。哲学か。感情か。理屈ではなさそうだ。
僕はぎりぎりのところで森の言葉に賛同する。本当にぎりぎりだけど。目の前で死刑が執行されそうになったら、殺すなと叫ぶし、止めようとする。……「人は、そうであってほしい」という、それはただの願望なのかもしれない。僕もまた、罪人だ。