「編集者」という機能について
@solar1964さんのおっしゃられている「『○○を編集する』の○○を広げていく」というのは非常に同意できる内容です。特に「コミュニティのオルガナイザー」としての編集者機能は重要だと思っています。僕自身は「エンジニアライフ」というコミュニティメディアの編集者として立ち上げ/運営/プロデュースを行ったので、実感としてよく分かります(いまは実質の運営は後輩に任せていますが)。
編集者はもう必要ないのか?
ところで、ブコメでid:worrisさんが「ウェブにおいては、TwitterやTubmlrのフォローに顕著だが、RSS購読やはてブお気に入りなど、読み手が編集機能を手にしている。編集者の中抜きも可能ではないか」とおっしゃられている。これも同意できる部分があります。
そもそも編集という機能が価値を持っていたのは、情報を整理して届けるというニーズを一身に背負っていたからです。発信者が個人になり、伝達手法がWebネットワークになり、取捨選択機能がGoogleのPage Rankやブックマーク数といった集合知、あるいはRSSリーダーやTwitterといったツールによって達成されるようになったため、旧来型「編集」の価値が下がったのです。最近は「編集」という言葉が「恣意的な情報操作」というネガティブな意味合いを持ち始めてすらいます。
要するに、情報は生の情報としてアーカイブされていればOK、あとは受信者が集合知やツールを利用してアクセスするよ、ということです。データベース消費ですね。
じゃあ編集者っていらないの? ……というと、微妙。人間の編集が恣意的なのと同じレベルで、集合知(のアルゴリズム)やツール(のアルゴリズム)は恣意的だからです。
ランキング動画に見る「編集者の価値」
分かりやすい例がニコニコ動画におけるランキング動画(え、分かりづらいって?)。ランキング自体はニコニコ動画の再生数やマイリスト数のランキングページを見れば分かります。だからランキング動画の編集者は必要ないはずです。でも実際にはランキング動画は人気です。そこに編集の価値があるわけです。
具体的には「機械的ランキングにおける恣意性排除(具体的には、工作動画や釣り動画の排除)」「いくつかのパラメータを掛け合わせたランキング構築(もちろんパラメータの設定は個人の恣意性に依存)」「演出(カウントダウン!)」「編集者個人のパーソナリティ(○代目うp主)」などが考えられます。
「編集の価値」と「編集者の価値」
編集の価値は確実に存在します。生のデータを個々人が加工して受け取るのは負荷がかかるからです。すべての人間がRSSリーダーやブックマーク的集合知を駆使して情報を得られるわけではありません。ただし、注意しなければならないのは「編集の価値」と「編集者の価値」は異なるということです。
要するに、コンテンツの制作や発信が個人でも可能になったのと同様に、編集も個人で可能になったわけです。個人製作コンテンツが増えれば稀少性原理からコンテンツで飯を食える人が減ります(あるいは、1人の実入りが少なくなる可能性が高くなります)。同じように、編集者として飯を食える人は減るでしょう(あるいは、1人の実入りが少なくなる可能性が高くなるでしょう)。
結論は?
結論なんてねえよ。